第60回  大学美術教育学会  山形大会

Oral presentation

口頭発表Oral presentation

演題

「子どもの論理」による美術教育思想の論理1

―長期連載・西野範夫「子どもがつくる学校と教育」の検討―

氏名

金子一夫

所属

茨城大学
kg9

COMMENT

  • 佐藤絵里子(東海大学) より:

    繰り返し辛抱強くご教示いただき、何とお礼を申し上げたらよいのか分かりません。
    「ともに遊ぶ美術教育」という生まれたばかりでひ弱な「概念」の形を取ろうとしている何かに対して、輪郭を与える糸口をいただいたような感興を覚えました。『美術教育史の歴史から』p.35についても理解の解像度が上がりました。

    シラーの「遊戯衝動」が意味するものを、日頃の自分の不勉強を謗りながら調べてみたところ、素材衝動と形式衝動において結合的に作用する衝動、とありました。「時間の中で時間を廃棄すること、生成を絶対的存在と一致させること、つまり変化を同一性と一致させること」という文章、それから、「人間は美とただ遊ぶべきです。そして人間は美とのみ遊ぶべきです。」という文章に出会いました。

    語彙も経験も乏しいために大雑把な表現となることをお許しいただけるならば、フェルメールの作品に描かれた時間であったり、セザンヌの「サント=ヴィクトワール山」の絵の一瞬と永続性の一致であったりを連想させます。「美」の根幹に関わる概念だと分かりましたし、「遊戯」「遊び」、この二つを同じものと見なしてよいと思いますが、これまでとは全く違う次元で理解するようになりました。

    (以下、ユルゲン・シェーファー著、舩尾日出志・舩尾恭代監訳『教育者シラー:美と芸術による人間性の獲得」学文社、2007、p.112)
    シラーが遊戯衝動の対象として「生ける姿」を考えているとき、かれはそこにおいて、「諸現象のあらゆる美的性状を、そして一言でいえば、もっとも広い意味において美とよばれるものを表示する」概念を理解しています。

    とはいえ、まだ難しくてほとんど理解できておりません。これを機に、理解を深めたいと思います。

    >問題の設定が逆のように感じます。西野先生の「子どもの論理」は、蓄積や成熟自体を否定し、それが知識・技術の否定にもなっています。もともと西野先生の「事態」は「連なり」の可能性をできるだけ封じていると見えます。

    蓄積や成熟は、それに該当する発想が、実践前に教師によって題材観の中で先取されているかどうかによって決まる、という順番だと解釈しました。

    >先述の「生命ある形」への志向をもたない事態を幾ら連ねても、漠然とした記憶は残っても、「蓄積」にはならないと思います。蓄積や連なりを想定の有無が事態も決めると考えたほうがよいと思います。

    生命が形をもつ、形に生命が宿る、内と外の調和、そのような地点を目指していくことを、(「美術」の、という意味ではなく「美術教育」の)到達目標とすることは難しいけれども、包括的な方向目標としては、これにまさるものはないのではないかという風に考えました。

    浅学ではございますが、一層学ばせていただきます。
    心より感謝申し上げます。

  • 金子一夫 より:

    佐藤絵里子 様
    コメントありがとうございます。ずいぶん齟齬が解消されたように思います。安心しました。以下にご質問や細かい点で補足的コメントをしておきます。これで齟齬は残るにしても、お互いの立場を認めることができるように思います。
    「これは、流行のカリキュラム・デザインの話に通じるのではないか?」→ 「流行のカリキュラム・デザイン」についてはよく知りません。おそらく、そのような具体的なものではなく、もっと一般的なことを言っていると捉えていただければと思います。
    「先生が原初的な力を肯定されていることを認識しました。」 →それは当然です。丸山圭三郎がいう「欲動」「欲望」がなければ、研究もしていないと思います。
    “社会制度や規範の否定」でも「生の欲動の肯定」でもない、両者の「ダイナミズム」や「動き」として「造形遊び」を捉えてみたい” →ずっと私の考えかたに近くなっていると思います。学校の教育としてする以上は、そのダイナミズムのなかで児童生徒の内部にシラーの言う「生命ある形」が形成されていくことを想定してほしいと思います。
    佐藤は「偶然に属するもの・正規のカリキュラム外のもの」と位置づけたいと考えます。→「正規のカリキュラム外のもの」という部分だけ少し違いますが、かなり近づいた考えと思いますし、それでよいのではないでしょうか。私の責任編集『美術教育史の歴史から』のp.35に、「自由な社会では感動を回復する」しかし「他者に強いられる一切の感動の形式を否定する」という原則を挙げておきました。それが意識されていればよいのではと思います。

    「蓄積」の有無によって、同じ事態が経験の「連なり」ではなく「無限反復」という意味に転化すると考えてよろしいでしょうか。→ 問題の設定が逆のように感じます。西野先生の「子どもの論理」は、蓄積や成熟自体を否定し、それが知識・技術の否定にもなっています。もともと西野先生の「事態」は「連なり」の可能性をできるだけ封じていると見えます。先述の「生命ある形」への志向をもたない事態を幾ら連ねても、漠然とした記憶は残っても、「蓄積」にはならないと思います。蓄積や連なりを想定の有無が事態も決めると考えたほうがよいと思います。もちろん、例えば学習指導要領の「造形遊び」は、発展・蓄積を想定しているように見えます。ただ、それは西野先生が連載で展開した論理には合っていないと思いますというか、さすがにそれはできなかったということでしょう。

    「ともに遊ぶ美術教育観への転換が必要」→これがシラーの言う「遊戯衝動」であり、丸山圭三郎のカオスモスであるように思います。

  • 佐藤絵里子(東海大学) より:

    動画の2回目の視聴を終えました。
    この場で思い浮かんだ考えをすべてお伝えしようとすると書ききれませんので、要点のみ、しかも主観が多分に含まれた独白に近い文章となることをご海容いただければと存じます。
    今後は、先生のご研究に対する応答的な部分を含めつつ、自分なりの「造形遊び」観について記した論文の執筆を目指したいと思います。
    まずは誠実にお応えいただいたこと、新しい解釈の鮮やかさ、そして、どうしたらこの箇所でこの引用をもってくるような境地に辿り着けるのだろうかと若手を唸らせる学識に対して、改めて御礼申し上げます。

    【いただいたコメントについて】

    ★西野先生の「子どもの論理」に関するコメントを読み、新しい解釈の可能性に対して目が開かれたこと

    ・連載の途中で子ども対近代の二項対立の不毛さに気づき、両者の関係をこのまま維持することはできないので、着地点として共同性への回帰を設定したという読み。また、これはアジア的退行ではないかと考えられるという可能性について。
    ・共同性への回帰を話題にするようになった直後のタイミングで、井筒風の深層意識の構造を議論の俎上に載せるようになったことの意味。このタイミングには必然性があったと考えられること。

    ★金子先生の西野論とコメントを合わせて読むことで見えてきた問い

    ・コメント内の「教育内容や方法論を具体化する」ということは、発表中の言葉を一部借りるならば、「現世的な次元で対処する」ということに重なるのではないか?これは、流行のカリキュラム・デザインの話に通じるのではないか?

    ★改めてお聞きしたいこと(金子先生と佐藤の見方の共通点と違いを整理)

    ・金子先生の丸山圭三郎のスライドの中にあった「カオスモス運動に現実との調停可能性があった」という一文といただいたコメントの両者から、先生が原初的な力を肯定されていることを認識しました。
    ・ここから先は佐藤の「造形遊び」観の話になりますが、それは、先生の「カオスモス運動に現実との調停可能性があった」という見方と一致するものです。「社会制度や規範の否定」でも「生の欲動の肯定」でもない、両者の「ダイナミズム」や「動き」として「造形遊び」を捉えてみたい、という考えです。
    ・深遠さや「生きている様式」との出会いについて、先生は「偶然に属するもの・学校外のもの」と位置づけておられますが、佐藤は「偶然に属するもの・正規のカリキュラム外のもの」と位置づけたいと考えます。そうすることによって、感動や出会いを評価の対象となりえない「潜在的カリキュラム」とみなしたいのですが、このようなような線引きについてのお考えをお伺いできれば、と思います。それでもやはり、一種の気味の悪さは付きまとうでしょうか。。。

    【その他、考えたこと】
    ・西野先生の連載の内容は、すでに試みられている研究の他にも、さまざまな再解釈の可能性に開かれているのだと改めて感じました。金子先生のご発表から、仏教的な解釈の面白さについて知ることができました。外部=現世否定が根底にあるという見方に立つことで初めて見えてくる理路があるのだろう、詳しく知りたいと感じました。
    ・西野先生の「造形遊び」観では個々の「いま・ここ」の経験の「連なり」が子どもの論理を形成し、同時に自己を成立させる事態を指し、それはすなわち経験=学びである、と定義されているように感じます。同じ事態が金子先生の言葉では「瞬間毎に『意味生成』を無限反復する根源的行為」となります。先生のおっしゃる「蓄積」の有無によって、同じ事態が経験の「連なり」ではなく「無限反復」という意味に転化すると考えてよろしいでしょうか。その場合の「蓄積」とは何か、把握したいです。
    ・制度や文化的規範の獲得を「抑圧」と同一視し単に取り除くことを求める美術教育観から、制度や文化的規範と一定の距離を保ちながらそれとともに遊ぶ美術教育観への転換が必要ではないか、と感じました。初等教育や中等教育で制度的文化を取り込むからこそ、長じたときに、それを克服しようとする葛藤が生まれ作品へと昇華されるのではないか、と感じます。

    以上、不十分な内容ではありますが、記載させていただきます。
    最後までお読みいただき、有り難うございました。

  • 金子一夫 より:

    岡田匡史 先生

    コメントありがとうございます。まず基礎作業として西野先生の連載を私なりに読解するのに2ヶ月くらいかかってしまいました。西野先生は語りの人だと思います。直接話を聞いたら誰でもひきこまれてしまうくらい、語りによる説得の才能は天才的だと思います。それだけに連載は研究論文的な論理整合とは別の次元のものだと思います。論理整合的でない言語表現は美的表現につながるものがあり、私にはとても興味があります。美術科教育学会通信No.81で、鶴田浩二「傷だらけの人生」の語りにおける非論理性による表現力について触れたことがあります。論理と表現の問題には、とても奥深いものがあります。岡田先生のコメントに正対する回答にはなっていないのですが、お礼とともに申し上げました。

  • 金子一夫 より:

    佐藤絵里子 様  及び佐藤さんとのやりとりを読まれた方へ

    前回の回答で言い過ぎた点と読まれた方に誤解を与えかねない点がありました。ここに補足を述べさせていただきます。
    「知識や技術を否定するのは勝手ですが、罪悪感からそれを国家規模でしてよい権利はありません。」という部分は、西野先生がそうだという意味ではありません。そして国家の政策が個々人の罪悪感から決定されることはありません。もっと高次のレベルで決定されているはずです。ただ、その政策文言が、我々の中にある罪悪感をついたという判断であると理解してください。戦後直後には国民に通用しなかった言い回しが、変だと思いながらもそうかもしれないと響くような高学歴社会になったのだと思います。
    それから西野先生はその思想の徹底性において美術教育史に残っていくと思います。ただ、その思想の学習指導要領への反映は間接的ですし、一般の教員への反映は希薄であったと思います。一般教員は造形遊びが近代の否定を基礎にしているなどと聞いたら、腰を抜かしてしまうでしょう。また、当時の美術教育研究者もその思想の理路は捉えられなかったと思います。平成10年当時、私は40代後半でしたが、西野先生の何か不思議な論述、そして学習指導要領はそれまでの傾向を徹底したもの程度の理解でした。
    文科省や美術教育研究者が何と言おうと、教育現場ではできるようにしか理解・実践はしないわけです。ただ、学校教育の最終責任は個々の教師が児童生徒の意欲を喚起できたか、さらには児童生徒が意欲を喚起したかという論理に気づくべきかと思います。今日のコロナ禍でも要請ベースの政策と同様に、責任は都道府県か国民にあるという論理です。都道府県が教員、国民は児童生徒に置きかえると理解しやすいと思います。それでよいという強い覚悟が我々にあればよいのでしょうが。

  • 岡田匡史(信州大学) より:

    茨城大学名誉教授
    金子一夫先生
     副題の「長期連載・西野範夫「子どもがつくる学校と教育」の検討」に興味を惹かれ,ご発表動画を視聴させて戴きました。と言うのは,私も,と申しましても,金子先生の読解水準には到底及ばないのですが,西野先生の連載内容はずばり難解で,何度読み直しても,頭の中で論理的基盤上に柱・骨組が中々組み立てられてこず,読後感としては流動的・拡散的な印象に近く,ただしかし,遭遇する語句や言い回しが何処か忘れ得ぬ輝きを放ち,響き,残る,と言うような読みの体験が在りましたからです。その謎を解明戴けるのではと,期待して,動画視聴させて戴き,僭越な言い方をお赦し戴ければと願うものですが,7~8割位,もやもやしていた状態が明瞭化できてきたように感じております。金子先生に拠る論点整理,問題領野への鋭い照射,論理的道筋の丹念で説得力有る提示のお蔭であり,更には,西野先生の連載内容の難解さに対する理解は,金子先生ご自身が懇切丁寧に語って下さる過程で,摑み得て参りました。このことに深く感謝致します。四半世紀以上も前の出来事で,記憶朧なのですが,山口大学教育学部附属光小学校の公開授業研究会の折,西野先生が,造形遊びではなく,(確か)新しい学力観(または,子供?)を主幹的テーマに,科目を越えて全参加者を前に講演されましたことが蘇って参りました。講演内容を一言で凝縮すると,子供讃美だったかと思います。西野先生の子供への信頼が確信的・絶対的なので,説得力が当然高く,と同時に,だから超然的で,高層ビルを建てるが如き論理構築は不要なのかと,当時,感じたのを想起致しました。そのような記憶にも,金子先生は分析的メスを入れて下さったように感じました。最後で蛇足的な附記となりましたことを,どうかお赦し下さい。様々な側面を細部に亙りご示唆・ご教示戴き,誠に有り難うございました。

  • 金子一夫(茨城大学名誉教授) より:

    佐藤絵里子 様

    再びの意見ありがとうございます。基本的な点で私と佐藤さんが違っているので、すっきりとしないのであろうと思います。
    ・まず、西野先生の論述から読み取れる思想は、西野先生独自なものと理解します。例えば、西野先生の言う「造形遊び」概念と、佐藤さんの「造形遊び」概念、さらに学習指導要領の想定する「造形遊び」等は同一ではないという前提での議論となります。
    ・その上で、私の発表はまず西野先生の思想がどのようなものであるかを解明しようとしたものと理解してください。私の思想はそこから透けて見えるとは思いますが。「造形遊び」のあるべき姿や意義についての議論ではありません。もちろん、私の前回答がそのような議論を呼んでしまったのであれば、お詫びします。
    ・佐藤さんの意見には、西野先生の思想についてと佐藤さんの意見とが混在してしまっています。分けて回答します。まず、西野先生の思想に関して回答します。
    ・丸山圭三郎も今村仁司も指摘した二項対立の不毛性について、西野先生はその箇所を引用もしていましたので、子ども対近代が不毛的な二項対立であるとは、途中まで自覚していなかったように見えます。
    ・結局は、西野先生は二項対立を維持できなくて相互作用や相互行為という共同性によって解消しようとしたのだと思います。西野先生は共同性を理想としていたのではなく、二項対立の解消のために共同性に着地せざるを得なかったと推測します。
    ・共同性を着地点あるいは到達点にしてしまうと、それまでの思考過程に一定の意義を与えて、解消するように機能します。実際、西野先生はその後、子ども対近代について触れることはなく、井筒俊彦風の意識の深層構造を専ら述べるようになります。あれほど近代と子どもを対立させた主張は、どこへ行ったのかと思います。
    ・共同性を出発点にすることは、基本として連帯感や共同感情を意識することです。そこから教育内容や方法論を具体化する方向を考えることができます。連帯感や共同感情を最終到達点とすると、到達すれば途中の教育内容や方法論はどうでもよいことになります。
    ・連載から読み取れる西野先生の思想は、端的に言ってしまうと、成熟とか蓄積、そしてその素材としての技術や知識の否定です。これは従来の教育観からすると革命的ですが、多くの日本人、特に勉強してエリート意識をもつ人を捉えます。なぜかというと、知識や技術によって現在の自分があるという罪悪感をもっているからと私は考えています。
    ・ただ、それは教育、特に制度としての教育の否定ですので、罪悪感をもっていない大衆をとらえません。大衆は技術や知識が無いとひどい目にあうとわかっているからです。いくら成り上がりエリートが批判しても、受験教育が廃れないのはそのためです。知識や技術を否定するのは勝手ですが、罪悪感からそれを国家規模でしてよい権利はありません。
    ・西野先生は同じ北陸出身として西田幾多郎に親近感はあったとは思います。前回答にも書きましたが、それ以上に西野先生は浄土真宗の親鸞に拠っているように思います。親鸞は自力作善では、つまり修業しては極楽に行けないと言います。修業、つまり技術や知識を蓄積して成熟することは、自力作善に他なりません。
    ・次に佐藤さんの造形遊び肯定論に関しては以下のように考えます。
    人間の原初的な力は私も否定しません。その深奥さも自覚しています。私個人も物質や物の力に魅せられる傾向があります。ただ、それは微妙な一種の個人的出会いです。それゆえ学校で制度的・集団的に毎週やると考えるのは、あまりにも粗雑すぎてぞっとするのです。佐藤さんの言われるような造形遊びは、学校できっかけを与えても実質は偶然的な学校外のこととしてほしいと思います。学校でやるならば、明快な知的な内容としてでないと賛成できないのです。集団で深奥なことをさせることにぞっとする気持ちをわかっていただけるとよいのですが。

  • 佐藤絵里子(東海大学) より:

    金子先生、示唆に富むメッセージをいただき、ありがとうございます。

    共同性を出発点とすることで、思考もふくめて努力もできる、という一文の意味について考えました。

    それは、美的価値を体現する教師とともに在るということが出発点となって、努力の方向性が生じ、学習者の向上や教育が成立するということではないかと思います。
    そこでは、近代的構造とは異なる理によって支えられた「型」や「目標」が想定しうるのかもしれません。

    一方で、相互作用の中で作為を手放し、自己の内外から何かに突き動かされるようにして、自ずから行為が生じ、それが連綿と続いていくという状態もあると思います。アートセラピーや即興的な音楽・ダンスでは、そのような境地があると感じます。
    「造形遊び」にも、ここに挙げた種類の芸術ほどではないが、中動態というのでしょうか、動かされる要素があるように思います。これは自力、他力のお話につながるのではないか、と。

    「造形遊び」の慧眼といえる点は、教育の場でありながら、いまだ形をもたない原初的な力のはたらきを想定しているところだと感じています。しかし、それは見えない場所で起こるのと同時に、現世の中で表現されるものでもあり。。。

    「子どもの論理」に接近するためには、その力の現世的な現れを、子どもにとって他者である教師が見取り、図や言葉によって可視化するよりほかに方法がなく、それは記号によって実体となったもので文字通り論理に属するので、そこから構造をつくる段階まではあと一歩しかないのだと考えています。
    近代的構造も「子どもの論理」も、スケールの大きさは違うものの、全く別のものではあり得ない、一見したよりも差は少ないのでは、という思いがあります。純粋な理論というのは数学以外にはありえないことを考えれば、どちらも完全な抽象ではないと言えますし、、、。

    したがって、二項対立を徹底させる、という戦略に対しては、どの角度から見ているのか?と問わなくてはならない、と思います。
    構造 対 力の関係であれば異質なもの同士のせめぎあいの話だなと了解できますが、論理 対 論理の話は座標軸の置き方によっては同類に見えてしまう、、どちらも純粋ではないよな、、というのは穿った見方でしょうか。

    「子どもの論理」が、現実の中で差異を生みだす以前の、原初的な力のはたらきを想定している点に共感を覚えます。それは、想定しなくてはならないと思います。
    しかし、そのような力を、現実を超越したはたらきとして取り出すことはできないし、子どもが努力したこと、変化したことを、教育の言葉で語るためには、そのような判断を支える社会の側の構造が必要だな、と思いました。

    共同性が到達点になるというのは、互いの差異がなくなるということでしょうか、一つの大きな存在になるということでしょうか、生命のスープになってしまうのは恐怖です。西野先生がそれを理想とされていたという立証は今できませんが、西田の「一即多、多即一」の影響はあるのかもなあ、、、とつい推察してしまいます。

    長々とお付き合いいただき、有り難うございました。
    訂正や反対意見、補足等、至らぬ点をご指摘いただけますと幸いです。

  • 金子 一夫 より:

    佐藤絵里子 様
    もしかすると誰からもコメントをいただけないかと心配していましたので、佐藤さんからご感想いただいて安心すると同時にありがたい気持ちでいます。
    西野先生あるいは我々でもそうですが様々な難問にぶつかってしまうのは、発表の最後でも述べましたが、共同性を出発点ではなく到達点にしてしまうためかと思います。そのため私の贈与交換システム論的美術教育学では、「共同感情」で要素間の隙間を埋めています。
    西野先生は純粋を求めるあまり二項対立を設定しました。現世否定の気持ちが強かったので、深刻な二項対立を設定したのではないかと思います。さすがに口頭発表では言えませんでしたが、その姿勢は親鸞の自力作善の否定を想起させます。親鸞は、自力作善=人々が自ら修業して往生しようとすることを、阿弥陀仏の絶対性を信じていないとして否定します。その徹底性によって親鸞は今日まで残る思想性を獲得しています。しかし、我々はそこまで徹底することはできません。我々は純粋でなくても既に共同性の上にあると、つまり共同性を出発点とすることで、思考もふくめて努力もできる、理論的難問も少しは解決するように思います。
    回答にはなっていないのですが、感謝とともに申し上げます。

  • 佐藤絵里子(東海大学) より:

    この度は、とても貴重なご発表を有り難うございました。

    「造形遊び」について「子どもの論理」から思想的に捉え、継承すべき点を継承しつつ、より開かれたものにしていかなくてはならない時期に、西野範夫氏の「子どもの論理」やその連載について、筋道を立てて考えるきっかけをいただきました。

    感想になってしまうのですが、丸山圭三郎参照の、制度を前提とした美術教育に関するスライドを拝見し、教育はノモスであり、権力性を帯びた場であるという認識から出発することの必要性を痛感しました。系統性そのものの否定ではなく、かといって既存の構造の無条件的な維持ではなく、穏やかな形での新陳代謝が必要だと感じています。新陳代謝にとって必要なものこそがカオスであり、それは先生が提案しておられる「ズレ」や拙論のネットワークの「間隙」に宿るものと思います。やはり、二項対立図式を前提とした近代批判の段階で満足してしまうのは、勿体ないことなのではないでしょうか。

    また、「共同性への回帰」という概念からも感じるところが多くありました。現実には、他者との愛に満ちた相互作用ばかりではなく、絶対的な分かり合えなさもあり、分かり合えないけれども相手を侵害しないという妥協的解決もあるかと思います。

    表象の否定についても、再考しなくてはならないと感じました。西野氏が表象を否定することの意味を、十分には図りかねています(個人的には、創美以来のいきさつを見ると感覚的に分かるような気もする。しかし…と思うこともある、という感じでしょうか)。

    連載は、研究論文の文体ではないという点にも、賛同させていただきます。経典、それから西田幾多郎の文体に似ているような気がしています。「いま・ここ」の強調と西田の「自己限定」の論理とのつながりを感じています。

    引き続き、さまざまな機会にお話をさせていただければと思います。

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